【本】食べることと出すこと(頭木弘樹)
あえて言うが、コロナ禍になったことで、生きやすくなったと感じる患者はわたしだけではないのではないだろうか。
徹底した除菌の習慣。努力や自分の一存でどうにもならないこともあるという諦観。個食や否応なしのひきこもり生活。患者にとっては当たり前のものだ。
社会のマイノリティだと思っていた患者側の生活スタンダードが、突如マジョリティであるべきものとして逆転したことは、不思議でもあり、気楽でもある。
とはいえ、その生活をするに当たっての切実さというようなものは、形だけでは共有できないものだろう。
例えば入院して最初の一時退院の時、スーパーでむき出しに置かれていた野菜を見て、それを触ることに恐怖を覚えた自分をわたしははっきり思い出すことができる。無菌室にいたわたしには、まるで菌が可視化されているように感じられた。
頭木弘樹氏の『食べることと出すこと』には、長年潰瘍性大腸炎を患ってきた著者の、そのような切実な思いが書かれている。
「理解できない存在になっていくという孤独」
「ほんとそれ」(以下2行目はわたしの心の声)
「他の人には理解してもらえない気持ちを、なんとかして他の人にもわかってもらうためには、ありきたりな言葉に単純化してしまうしかない」
「完全同意」
「低い確率をおそれる」
「わかりすぎる」
「病気のときに、どういう仕打ちをされたかは、いつまでもその人の心に残る」
「うわああああ(泣)」
など、患者経験者であれば共感しかないような言葉が次々出てくる。患者にしか正確にチューニングできないチャンネルのラジオ番組を聞いているかのようだ。
このチューニングの方法を少しでも一般化するため、著者が苦しんで、古今東西の文学からの引用にサポートされながら執筆したのがこの本ととらえている。患者としては、手を合わせたくなるほどありがたい。
「病気の当人は、健康な人たちの想像の及ばない体験をしているのに、周囲の健康な人たちが、それを自分たちの想像の範囲で推測して、わかっているつもりで対応したとしたら、悲惨なことになってしまう」
「『想像が及ばないことがあるだろう』という理解」をもってもらうために、5年をかけて書かれた本書は、奇しくもこのコロナ禍の渦中に出版された。この機会に、「感覚の先覚者」(三宮麻由子氏の言葉)の言葉を読んで、病人はもとより、たくさんいる「見えない人」(こちらでも「想定の箱」として言及されている)の「状態」に思いを馳せていただきたいと思う。
身近な人が病気や入院した時の心の一端を知る手立てにもなるだろう。