【本】家庭の医学(レベッカ・ブラウン)
アメリカ人作家レベッカ・ブラウンによる、がんを患った母親を看取るまでの介護記。ノンフィクションなのだが、ブラウンが主に小説を書いてきた作家であるためか、不思議な語りの距離感だ。
原題はExcerpts from a Family Medical Dictionary『家庭医学事典からの抜粋』。各章のタイトルには「貧血」「転移」「モルヒネ」など、がん治療に定番の単語が使われ、章の冒頭にはそれぞれが事典のような文体で定義されている。
しかし続く文章は、それぞれを経験しているときの母親の状況と、著者の心の動きだ。例えば「耐性」の章。
冒頭の定義は「生物体が本来持っている、病気によって生じた微生物や毒素に耐える能力」。
そのあとには、二回目の化学療法を終え、耐性が「おそろしく低く」なった母の様子が綴られる。母を病院に連れていき、受付でマスクをもらうために待っている著者の脳裏に浮かんだのは、健康に老い、農作業をしていた母の姿だった。耐性の高い時の母だ。しかしマスクをした母は、懸命に病気と闘っていたが、「もう母のようには見えなかった」。
病気は極めて個人的なできごとで、医学事典とは対極的だ。集合的である事典の言葉が、自分や身近な人に個別に当てはまると知った時の戸惑い、距離感のようなものが、この形式を通して表現されているようにわたしには感じられた。ひとつの定義の周辺には、実にさまざまなことや想いがあるのだ。
終章は「Remains ①死体 ②残されたもの」だ。母が亡くなり、著者たち家族はその遺灰を、1200年頃にモゴヨン族が建てた「ヒーラ岩窟住居」のある谷に撒きに行く。母の好きな場所だったそうだ。「そこを流れる水が、母を運び去った」。
がんの家族を看取ったことのある人であれば、共感する文章が多いのではないかと思う。少なくとも、わたしにとってはそうだった。
母の脳が停止しかけていることを私たちは思い知った。この世界について母が知る必要のある事柄は、どんどん少なくなっている。母にとって知る必要があるのは、もうひとつの別の世界だ。それは私たちには理解することも行くこともできない世界だ。母は私たち抜きでそこへ行こうとしている。
つまり私は願っていたのだ。母に見えているのが、母がこれから行こうとしている場所であって、そこがよい場所であってほしいと。私は母に、ただ単に終わってほしくなかった。どこか慰めと、恵みと、安らぎのある場所へ行くことで、この人生の果てに訪れた辛さから救われてほしい。そう思った。